それは 『彼らは見るには見るが、認めず、 聞くには聞くが、悟らず、 悔い改めてゆるされることがない』 ためである」。
これらの人は知ることがなく、また悟ることがない。その目はふさがれて見ることができず、その心は鈍くなって悟ることができない。
「愚かで、悟りもなく、 目があっても見えず、 耳があっても聞えない民よ、これを聞け。
しかし、今日まで主はあなたがたの心に悟らせず、目に見させず、耳に聞かせられなかった。
そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。
反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
「人の子よ、あなたは反逆の家の中にいる。彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である。
だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。
目があっても目しいのような民、 耳があっても耳しいのような民を連れ出せ。
ユダの家がわたしの下そうとしているすべての災を聞いて、おのおのその悪い道を離れて帰ることもあろう。そうすれば、わたしはそのとがとその罪をゆるすかも知れない」。
目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。また思い出さないのか。